援助交際してたときの話

 

初めて援助交際をしたのは小学校6年生の夏、誰に何を言われたわけでもなく自らの意思でセックスをする相手を探していた。

理由は単純にセックスに興味があったからで、その時たまたま相手のおじさんが「お金を払うよ」と言ってくれたので援助交際になってしまった。

 

私のツイッターをよく見ている人は知っていると思うけど、私の2番目の父親には借金があった。

 

私が中学生になってすぐに父親は私に「処女か?」と聞いた。違ったけど何となく「うん」と答えた。どういう会話をしてそうなったかは覚えてないけど私は父親とセックスをした。(何だこれ)と思いながらずっと壁にあるシミみたいなのを見てた。

 

セックスが終わると「お前学校終わったら働け」みたいなことを言われて次の日から父親の飲み仲間や博打仲間とセックスをした。その人達からお金を受け取ったことは無いけど、父親にお金を渡してるのを見たことがあって(なるほど)と思った。

 

それから少しすると飲み仲間や博打仲間ではない全くの他人とセックスするようになった。私が当時思っていたのは"父親はどこからそんな人達を見つけてくるのか"ということだけだった。(今考えれば出会い系サイトとかで探していたのかもしれない)

 

マクドの前で待ち合わせにしてる」と言われることが多くて、家の近所のマックにいると、全然知らない人から本名を呼ばれて、ホテルに行ったり、車だったり、自宅だったり、外だったりでセックスをした。1万円の時もあれば5千円の時もあったし3万円の時もあってバラバラだった。

 

お金を貰ったら一度家に帰って父親にお金を渡して、また次の待ち合わせに向かう。

 

「嫌だな」とか、そういうことは何故か思ったことがなかった気がする。思わないようにしていたのか、本当に思っていなかったのかは、今となっては分からないけど、覚えてることは、私はこの援助交際で一度も泣いたことがないということ。

 

ある日、父親が「お前生理なってんのか?」と聞いた。「なってない」と言うと、その日から全員がコンドームをしなくなって、腟内に射精するようになった。射精した後に「本当に大丈夫なの?」と聞いてきた人もいたけど、何が大丈夫で何が大丈夫じゃないか全く分からなかった。ただ貰えるお金がいつもより多くなって父親は喜んでいた。機嫌がいい日は千円くれたのでコンビニでアイスを買ったりした。

 

こういう生活が続いて高校生になった時に妊娠した。でも私は何故か妊娠したことを父親に言わなかった。本能的に言ってはいけないと思ったのかもしれない。私の妊娠に気付いたのは母親で一緒に病院に行って堕胎した。

 

その時に初めて泣いた。

 

2回目に妊娠した時は自分から妊娠したことを伝えた。また母親と病院に行って堕胎した。週数がかなり経っていたらしいので3日間くらい入院した。退院する時に「もう二度とないように」と医者に言われたのを覚えている。「はあ」みたいな返事をしながら私は(子宮がなければ妊娠もしないのにな)と考えていた。

 

罪悪感もクソもこの時点で消滅していた。

 

それからはピルを飲んだり、アフターピルを飲んだり、飲まなかったりしたけど妊娠はしなかった。

 

18歳になってからは援助交際ではなくて、ちゃんとしたお店で働き始めた。驚いたのはセックスをしなくてもお金が貰えるということ、帰りはお店の人が家まで送ってくれるということ、たまにお客さんが食べ物やジュースを買ってきてくれること、マッサージをするだけでいいという人もいたり、逆に私をマッサージしてくれる人もいた。

 

この時、初めて漠然と父親が私に斡旋していた援助交際というものは"終わってる"んだなと思った。

 

これ以上思い出すとゲロを吐きそうなのでもうやめる。

 

 

生き方の話

 

私は1冊のノートを完璧に仕上げたいのです。

真っ新なノートの1ページ目に、おそるおそる、

丁寧に文字を書き入れるように、

そのような心地よい緊張感がずっと、

続けばいいと、そう思うのです。

 

1ページ目。それはもう美しい文字が心地よい感覚で並びます。

2ページ、3ページ目もそうでしょう。

ですが4ページ目にもなると、どこか文字がイビツになり、間違った文字があったりします。

私は「面倒だ」とは思いながらも、あの美しいページを思い出し、修正テープなんかで間違いを正していきます。

 

そして5ページ、6ページと枚数を重ね、気付けば10ページをこえた頃。

そこに美は存在しませんでした。

それどころかノートに記されている文字はどれもイビツで間違ったものばかりです。

修正しようにも、これでは大変な時間がかかってしまう。

 

そこで私はそのノートを捨てました。

 

そして真っ新なノートを1冊。

 

2度目の1ページ目です。「もう前のようにはならない」と心に誓い、ノートに文字を書き入れます。

残念ながら書き込まれた文字は、美とは程遠いイビツなものでした。

 

私は「くだらない」とノートを投げ捨てました。

 

それからしばらく、私はノートを手にしませんでした。が、ふと思い立ち、もう一度、真っ新なノートを買いました。

いっぱいの文字を書き、間違えれば修正し、

気に入らなければ破ってしまったり。

それでようやく、20ページをこえました。

 

その時です。

 

飲んでいたコーヒーがノートに零れました。

 

破っても、もう駄目です。

 

私はコーヒーまみれになったノートを見てぽつり。

 

「​───────」

 

今、私はまだコーヒーまみれのノートを手にしています。

美しくもなんともない、他人が見ればゴミ同然のノートです。

 

でも、それでいい。

美しくなくていい。

間違いがあってもいい。

私は私だけのノートを持っていればいい。

 

私は1冊のノートを完璧に仕上げたかった。

でも今は、ただ思うままに仕上げたいのです。

 

 

 

 

なわけねぇだろカス、エルメスのノート持ってこい

字は書道家に書かせろ、誤字は斬首や!

 

女が嫌いな話

 

私は女だけど、女がめちゃくちゃ嫌いだ。はっきりとした"○○だから嫌いだ"みたいな理由は分かってないけど、母親が嫌いだったり、自分みたいな女が嫌いだったり、何となく今まで関わってきた女は全員どこかしらキモかった。

 

例えば、その場にいない人の悪口を言ったり、これはババアに多いなと思うけど「あなたもそう思うよね?」みたいな感じで"同意"を求めてくるとか。

例えば、何か自分の間違いや過ちを訂正されたとき、とんでもねえヒステリックを引き起こして喚き散らすとか。

例えば、バカのフェミニストとか。

例えば、何かあればすぐに被害者面したりだとか。(本当に被害者なんですけど。みたいなことを言ってくるバカ女もいるよな。お前のことだなんて一言も書いてないのに)

 

こういうことをツイートしていたら「女全員嫌いなんですか?」「男になりたいんですか?」みたいなのが送られてくることがあるけど"女全員"嫌いなわけがないし、男になりたいわけでもないし、私はただ私が嫌いな女が嫌いなだけで、好きな女はめちゃくちゃいます。

「ぼく」とか「俺」とかを使ってツイートをすることに特に意味もないし「どうして男のフリしてるの?」って言われることもあるけどフリをしてるつもりも"あまり"ないです。初見で女だって分かるよりも「あ、こいつ女なんだ」ってなったほうが多少はウケるかなと思ってやってるだけです。

 

あと女って一緒にいるときは楽しいフリするのに帰ってからボロカス言うじゃん。あれめちゃくちゃ怖くないか?女、フリが上手すぎるんよ。私は全くそれが分からないから「楽しいんだ、よかった〜」とか思ってるんだけど、帰宅後に「また飲もうね〜!」的なラインをしても百発百中で二度とその女は私と遊んでくれません。それはほんまになんで?もうそれだけ教えて

 

 

バレーボールを頑張っていたときの話

 

バレーボールを始めたのは中学生のときで、通っていた中学校の部活だった。私以外にも同級生が7人、計8人が入部したんだけど、8人中6人が経験者で「マジかよ」と思った。

 

はじめの頃は同級生みんなでボール拾いをしたり、空いた時間にバレーボールのやり方みたいなのを教えてもらったりした。多分まだこの頃は「こいつを蹴落としてレギュラーになってやろう」とか、そういうことは考えてなかったと思う。勿論、私もそういうことは全く考えてなかった。

 

5月に入部してから3ヶ月が経つと割とバレーボールができるようになっていて自分でも驚いたのを今でも覚えてる。経験者の同級生は当たり前だけど私よりも上手で、そこではじめて「悔しいな」と思った。

 

その日のミーティングで顧問が「1年生のポジションを決める」と言って、みんながザワっとしたのが分かった。「A、お前レフトやってみろ」「B、お前はセンター」みたいな言い方で「こっちの希望を聞くとかではないんだな」と理解した。で、私の番。「たんぽぽ、お前セッターやるか?」と言われた。私は内心すごく嬉しかった。自分がやりたかったポジションだったので「はい!」って大きい声で返事をした。でもその日の帰り道、同級生に「"はい"じゃないねんけど」って言われて部活でも若干いじめられるようになった。その子も私と同じでセッターになりたかったらしい。正直、腹の底から「知らんがな」と思った。

 

それから数日後、夏休みに合宿に行くという話があった。「朝から晩までバレーボールができる」そう考えたら本当に嬉しくて楽しみで家に帰ってすぐに母親に「今度合宿がある」と伝えた。返ってきた言葉は「そんなお金ない、あんたは行かんでいい」だった。「あ、そうだった。私の家めちゃくちゃ貧乏なの忘れてた」と思って風呂で泣いた。次の日、顧問に「家の都合で行けません。予定があります」と言うと少し怒られた。でも中学生の私に「お金がないので行けません」と言う勇気はなかったので仕方がなかった。

 

それから秋になった頃に問題が起きた。顧問の体罰が露見した。そもそもバレーボール部は顧問の体罰が暗黙の了解みたくなっていた。実際に私も殴られたし、凍ったペットボトルが飛んできたこともあった。それでもみんな辞めないんだから部員本人は納得していたんだと思う。ただ当たり所が悪く鼻血を出した部員(Cさん)がいて、その鼻血がついた服を親が見つけて学校に連絡をしたらしい。「すまんな、もう俺はお前らの顧問でいれない」と泣きながら言う顧問を見て私もみんなも泣いていた。誰もCさんを責めたりはしなかったけど多分誰もがCさんを心の中で責めていた気がする。Cさんは学校を休むようになって部活も辞めていった。

 

新人戦まで時間もないのに。とか、やっと私たち1年生を中心に指導してくれるようになったのに。とか、色々考えたりしたけど、こういうのは子供が何を言ってもどうにもならないんだなっていうのが何となく分かった。色々あって、中学校の近くの体育館で小学生にバレーボールを教えているオジさんが週に2日、私たちにバレーボールを教えてくれることになった。たった週に2日間だったけど、私は合宿に行けなかった3日間を思い出して「たった3日間で私は下手になって、みんなは上手になっていた。この2日間は絶対に無駄じゃない」とかジャンプの主人公みたいなことを考えたりした。

 

新人戦前日、ユニフォームを渡されたときの高揚感は多分死ぬまで忘れないと思う。私は2番で副キャプテンだった。間違いなく人生の中で1番輝いていたと思う。1番でキャプテンの子は、私に「"はい"じゃないねんけど」って言ってきた子だった。「どんなトスでも私が決めるから」と言われて正直ウケた。マジで青春じゃねえかと思ってウケてしまった。でもすごく心強かった。帰り道に1年生みんなでジュースを買って乾杯をして家に帰った。

 

新人戦当日、めちゃくちゃに緊張した。「こんな練習量で本当に勝てるのか?」とか「トスミスしたらどうしよう」とか「初っ端のサーブミスったら殺される」とか、そういうのをずっと考えてた。私は緊張するとトイレに行く癖があるので当たり前にトイレに向かった。そこで顧問に会った。多分来てはいけないのにサングラスをかけて来ていた。私は多分「あ」とか「は」とか言ってびっくりしていた。顧問は何も言わないで私の背中をかなり強めに叩いて2階の客席に上がって行った。みんなの所に戻ったときに私は顧問が来ていることを言おうか迷ったが、結局言わなかった。

 

試合内容はあまり覚えてないので省くけど結局私たちの中学校は準優勝だった。私以外のチームメイトは泣いていたけど、私は特に涙は出なかった。「週2の練習で準優勝って顧問がいたら絶対優勝してたやろ」とか「てか準優勝ってすごない?盾みたいなん貰えるやん」とか、そういうことを考えてた。

 

次の週の全校朝礼でバレーボール部は表彰されて、盾と賞状とメダルみたいなのを貰った。朝礼が終わってからすぐに顧問に会いに職員室に行くと、教頭が気を使って会議室を貸してくれた。顧問はまた泣いていた。「おめでとう」「すごいな」「よくやった」とか、そういうことを言っていて、私はすごくムカついて「でも顧問がいたら優勝してました」と言ってしまって空気がエグいことになったのを覚えている。

 

それから私はバレーボール部を辞めました。これ以上バレーボールをしていても自分の中で特に意味がなかったからです。

 

当たり前だけど部活を辞めたらまたいじめられるようになった。だから学校にもあまり行かなくなったりしたし、成績もクソもないぐらい勉強もついていけなくなった。その度に顧問は「すまんな」と私に言ってきた。「マジでもっと謝れ」と思った。私は顧問がいるバレーボール部でバレーボールをしたかったし、推薦でバレーボールの強豪校に行きたかった。

 

卒業式の日、私は友達もいなかったので顧問にだけ挨拶をしようと思って職員室に行った。「3年間ありがとうございました」と頭を下げると顧問はまた泣いて「すまんな」と言った。私は「本当にそうですよ、私絶対に推薦で高校行きたかったしバレーボールずっとやりたかったのに」とかそういうことを言いながら泣いた。「あの時、優勝できなくてすみませんでした」と、ずっと言いたかった言葉も言った。

 

顧問は笑って「1番格好良かった」と私に言ってくれた。

 

短い間だったけど、バレーボールを頑張って本当に良かった。と、心の底から思った。